「さくらのもり」で考えた。

社会福祉士が、福祉や社会保障についていろいろ考えてみるブログです。

24時間についてかんがえた

週末に、リレーフォーライフぐんまに行ってきました。リレーフォーライフは、がん患者やご家族を支援し地域で支える活動です。年に一度大会が開かれ、24時間のリレーウォーキングを行っています。全国では40か所以上の会場でほぼ一年を通して行われています。

 

群馬の大会は今年で3回目か4回目ぐらいでしょうか、私は去年に続いての参加となりました。会場に着いたのは夜10時近かったのに、大勢の参加者がトラックを行進していてびっくりしました。ルミナリエとよばれるランタンもトラックを5重にとりまくほどでその数の多さにびっくり。

 

ちなみにその時点ですでに270万円ぐらいの寄付が集まっていました。ルミナリエには患者さん(サバイバーと言います)の思いや、身内の方を亡くした家族の思い、医療関係者のがん征圧への思いなどが書かれています。

 

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このルミナリエを書いたのは、小児がんの患者さんでしょうか。夢は「ままになりたい。」だそうです。とてもすてきなお母さんと暮らしている姿が浮かびます。裏にはお母さんの手で「ちりょうにまけないで、たたかうすがたは、とてもつよいよ。いつも、おうえんしているよ。」と書かれていました。

 

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こちらのルミナリエは、お母さんを亡くしたご家族のものでしょうか。「お母さんの娘に生まれて幸せでした。」とあり、「お誕生日おめでとう!お墓に会いに行ったのわかった?」とありました。10年間お疲れさま、とあったので長い闘病生活を支えたご家族の苦労が伺えます。

 

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「願いはかなう」というルミナリエもありました。群馬の大会に行ったのは、成年期の末期がん患者や小児がん患者の移動支援を行うNPO群馬県で作りたかったからです。「願いをかなえる」NPOを一日も早く作らなくては、という思いが一層強くなりました。孫さんあたりが資金提供してくれないかな?

 

で、ここからが本題です。リレーフォーライフの大会は24時間かけて患者自身や支援者が会場内のトラックをひたすら歩くのです。なぜ24時間なのでしょうか。

 

がん患者は24時間がん患者なのです。支える家族も24時間支えています。医療に携わる人は、医師でも看護師でもあるいは他のコメディカルソーシャルワーカーでも、シフトを離れれば、服を着替えてふつうの人に戻れます。

 

年に一度くらいは、24時間がん患者でいることの意味を知ってほしいというのがこのイベントの意味です。

 

でもこれはがん患者だけの問題ではないのです。身体障がい者や精神障がい者も24時間障がい者であるし、生活困窮者も24時間生活困窮者なのです。福祉の現場で働く人たちは一度はそうしたことを感じたことがあるはずです。シフトを離れる時にまるで自分だけ問題から逃げ出しているような感覚に。

 

勤務時間が終われば、当たり前のようにその場から離れられる人間と、問題と24時間かかわっていなくてはならない当事者とが、本当の信頼関係を築くことができるのかという問いはもっと福祉関係者や行政の担当者が考えなくてはならないことです。

 

 

看取り先生の遺言―がんで安らかな最期を迎えるために

看取り先生の遺言―がんで安らかな最期を迎えるために

 

 

ニフティについて、かんがえてみた。

参院平和安全法制特別委員会にSEALDsのメンバーの方が出席され、意見表明をされました。SEALDsについては、以前、宣伝カーがある労働組合関係から借りたものだったとか報道されたことがありました。

実際、国会前のデモとか集会とかに行くと労働組合のノボリ旗がたくさん立っているということです。SEALDsさんが労働組合などから支援を受けて活動されているのかについては不明ですが、そうした報道に敏感になってしまう「さくらのもり」です。

今日は、労働組合にやられちまった話を書いてみます。

昔々、ニフティというサービスがありました。わたしは当時いくつかの会議室に所属していました。その中に、当時勤めていた会社や同業の業界の会議室がありました。リテラシーの低かったわたしは、その会議室に当時勤めていた会社への不満や、なにもしてくれない労組への不満をせっせと書き込んでいました。

それから20年近い年月が流れたある日、会社の上司からある人物を紹介されました。その方は関西地方の同業者の方で、労働組合の幹部の方。しかもナントカ労連のほうでも幹部の方でした。

その方といろいろお話をしているうちに、ニフティの話になりました。あのころいろいろ書き込みをしていましたよ、という話をしたところ、その幹部の方は”わたしがあの会議室のボードリーダーだったんですよ”と明かしてくださいました。

その一か月後のことです。わたしは突然配置転換を申し渡されました。リストラというか人材開発室行きというか、そういう人事異動でした。上司に聞いてもはっきりした理由は教えてもらえません。

そのまた数か月後にわかったこと。ナントカ労連の幹部の方が関西に戻って当時のログをチェックしたようです。そしてわたしが会社や労組に批判的な人間であることを知り、友人だったわたしの上司に連絡したのです。

会議室では匿名で発言しているつもりでも、ボードリーダーなら本名からおおよその住所まですべてわかりますから発言は特定できたのでしょう。わたしは20年も前のネット上のリテラシーの低い行ないでいろいろと棒にふってしまいました。

まあ、その結果わたしはその業界を離れ勉強をしなおして、この福祉の世界に入ったわけですから悪い事ばかりではないし、そういうひどいことをしてしまった上司はそれが原因かどうかはわかりませんが、ひどいうつを患ってしまい現場からはずされたようです。

まだもやもやとした疑問として残っているのは、ボードリーダーがそのようにして得た個人情報を漏らしたことに違法性はなかったのだろうか、ということと、(ニフティはたしかボードリーダーに、アクセス数に応じた報酬が支払われていたはずなので)会社員であるボードリーダーがそのような報酬を受け取って、問題はなかったのだろうか、ということです。

どちらにしろ、労働組合と聞くとこの出来事を思い出してしまうのです。そして(あいかわらずリテラシーの低いことですが)労働組合の人のやることは、あんなことなのだろうな、と思ってしまうのです。

国会前を写した写真にあのボードリーダーが所属していた労働組合連合会の旗が写っていたため、こんな話を思い出してしまいました。当時のニフティをご存じない方にはわからない用語ばかりで申し訳ないですが、わからないところはどこかで調べてみてください。

労働貴族 (講談社文庫)

 

フリーについて、かんがえる前に。

みわよしこさんという人の名前がどうも覚えられない、「さくらのもり」です。

 

ひらがなで5文字の、女のひとだったよな。としか覚えられないので、どうしても「やなぎみわ」とか、「けらえいこ」とか検索してしまいます。

 

フリーについてかんがえているときに、そのみわよしこさんのツイッターを発見してしまいました。参考にさせていただきたいツイートの少し前にちょっと首をかしげてしまう記述があったのです。

 

なんぷうさんのツイート、”人口が2万3000人の富良野市では、社会福祉協議会はありません。福祉貸付制度がないので、・・・・冬場は(暖房費を節約するために)公共機関で暖をとっています。”に対して、

”そういう時、お子さんはどうしているのですか?”と返してしまっているのです。

 

ちょっと、待ってください。富良野市にも社会福祉協議会はありますから。福祉貸付制度もあります。

 

そこをきちっと返してあげることが、正確な情報を提供してあげることが大事なのではないでしょうか。

 

みわよしこさんにはいろいろありますが、それはいずれ”フリーについてかんがえる”ときにということで。

 

セーフティネット―コミュニティソーシャルワーカーの現場

セーフティネット―コミュニティソーシャルワーカーの現場

 

 

庭には、グリーンが3つ(とバンカーが1つ)

 震災後、文字通り「雨後の竹の子」のようにNPOができた。その多くはその後活動を休止し、理事会や総会が開かれなくなり、活動報告書や計算書の提出もされず、淘汰されてしまう運命にある。おそらくこの秋ぐらいから膨大な数のNPOが姿を消してしまうのである。
 一方、震災をきっかけに生まれ、健全な活動をしているNPOも少数だが存在する。問題はその中間にある「手段と目的が逆転した団体」である。震災直後、現地入りしたある女性から「今は、ボランティアにお給料とか出してもいいんですね」と言われ、びっくりしたことがある。その程度の認識の人が多数現地には入っていたのである。そのときの彼女の顔が輝いていたのは、被災地で有意義に活動出来ている事の喜びだったのか、それとも「自分探し」ができることの喜びだったのかはわからない。
 その後、彼女はNPOを立ち上げた。理事長である彼女もしっかり給料をとっていた。(これは違法です。)監督官庁に提出する計算書には、理事への報酬はない旨、記載があったので、帳簿は二重になっているのだろう。(もちろんこれも違法です。)まさかあのときの輝いた顔は、この違法性の高い給与支給にあったのではないだろうが。
 ボランティアに報酬を支払うことは問題はない。(異なる意見の人もいるだろうが)。ただ、報酬を支払ってしまえば、労働者と変わりはないのである。報酬を支払う場合、最低賃金のことも考えなくてはならない。有償ボランティアという名称にしてしまって、最低賃金以下で働かせてはならないのである。もちろん労働基準法以下の待遇ではいけないし、労災に加入する必要も生じてくる。今年度からはじまった「日常生活総合支援事業」では、有償ボランティアをかなり大規模に組み入れるため、厚生労働省はこのあたりのことについて神経質になっている。
 被災地で長期的に支援を行おうとすると、有給のスタッフや有償ボランティアが必要になる。震災直後は無料で使えたスペースも復興が進むにつれて使えなくなり、事務所や倉庫を借りる必要もでてくる。一方、震災は風化し、あるいはあらたに他の地方や他の国で災害が発生し、資金的には苦しくなる。スタッフの経費や事務所の経費を集めるだけで手一杯になり、肝心の援助がままならないというNPOも出てきている。手段と目的の逆転である。
 震災直後は、多くの団体に大量の資金が流れ込んだ。多額のお金を管理し、使うにはそれなりの人数のスタッフも必要であるし、事務所や倉庫なども必要になる。資金の流入が減ってきても、大きくなった組織の規模を縮小することはむずかしい。特にスタッフの人数を減らすことは困難である。「意識の高い」社会に貢献する事業に携わることに懸命になるスタッフは、なかなか普通の仕事にもどることができなくなる。まさかと思われるかもしれないが、そうした組織やスタッフの中には、次なる大きな災害の発生を祈っている人もいるのである。(というか、そうでもなければ組織が維持できない)。
 で、タイトルである。震災後、2年ほどにわたり三陸に入った。三陸で見た光景で一番印象に残っているのは、陸前高田のあるおうちである。その家は津波が到達した地点より、数百メートル内陸の高台にある。家はおそらく震災後に新築された、かなりの豪邸であった。それ以上におどろいたのは、その家の庭には、ゴルフのグリーンが3つと、バンカーが1つ造ってあるのだ。私がそれを見たとき、その家の近くにはまだ仮設の避難所があり、せまい小学校の校庭にびっしりとプレハブのような建物がひしめきあっていたのに、である。
 家に戻って、グーグルの衛星写真で見てもそのグリーンは確認できた。複雑な思いがした。三陸の地元の人の間に、復興に関し「温度差」があるのだろうか。地域の人どおしが助け合えないなかで、よそ者に出来る事は何なのだろうか。よそ者は必要なのだろうか。あえてリンクは貼りません。ひまだったら、探してみて下さい。陸前高田市の小友地区?にある庭にグリーンが3つあるおうちを。

 

 

 

介護タクシーの計算式

 ほぼ2年間やってきた介護タクシーだが、今月いっぱいで廃業することに決めた。続けていけるだけの資金がなくなってしまったのだ。びっくりするような話だが、(毎年電話してくる帝国データバンクの人もびっくりして、3度聞きしたぐらいだが)昨年度の収入(売上)は、33万だった。

 

 介護タクシーで走っていると、いずれ利用してみたいという方や、自分も介護タクシーをやってみたいという方に出会うことがある。圧倒的に後者の方が多い。利用したい方より開業したい方のほうが多い業界なのである。

 

 介護タクシーというと、そこそこ楽で、そこそこ社会貢献ができて、そこそこ儲かるというイメージなのだろうか。実際は確かに楽で(仕事がないから)、社会貢献もできる(もちろんゴミ収集でも、道路工事でも社会に貢献していることに違いはなく、その意味での社会貢献かな)、しかし絶対に儲からない。

 

 一般に介護タクシーのような業態は、1日に5回しか運行できないとされている。これは国土交通省の資料にも書かれている。介護タクシーだけでなく、デマンドタクシーや(高齢者向けの)コミュニティバスなどでも同じである。一番利用の多い病院への送迎で考えてみれば、午前の診察の送迎で2回(往復)、午後の診察の送迎で2回、片道の利用(入院・退院など)で1回、という計算である。

 

 うちでも、最大で7回という日があったが、やはり5回が限界のようである。たとえばあなたが介護タクシーを始めようと思っているのなら、自宅から一番近い200床ぐらいの総合病院(近所のお年寄りがよく行く病院)までの距離を測ってみて欲しい。その距離に300円(1kmあたり)から360円を掛けた金額が、1回の料金になる。

 

 その金額に5を掛けたものが一日の売り上げ、さらに25を掛けたものが月の売り上げになる。もちろんこれはかなりきっちり仕事が入るという前提の数字でもあるし、実際にはもう少し距離のある仕事も入るので概算でしかない。

 

 ちなみにうちの場合は、2km以内に大きな病院がある。お客さんもほとんどその病院の2Km圏内の方である。つまり680円(初乗り運賃)しかもらえない方がほとんどなのである。680円で計算してみると、680×5=3,400 一日3,400円なのである。

 

 月にすると、3,400×25=85,000円 毎日びっしりと午前・午後に仕事が入ってこの金額なのである。では、ほとんどの業者はどうしているかというと、追加料金をとるのである。お客さんをタクシーに乗せる介助料金として一回に1,000円とる業者が多い。これをもらうと3,400円+5,000円=8,400円 月にすると210,000円になる。

 

 さらに車両に車いすを載せる場合、設備使用料?の名目で距離に関係なく、2,000円をとる業者もある。もし全部のお客さんが車いすで利用すれば、一日18,400円 月に 460,000円となる。このぐらいの数字になってようやく事業らしくなってくる。設備料をとらない業者でも、病院の送迎の場合、待機料として一時間あたり1,000円から3,000円ぐらいをとる業者も多い。

 

 ただ、利用する方のほとんどが病院から2km圏なのである。たかだか2Kmぐらいのところの病院に通うのに、往復で9,000円以上のお金を払わなくてはならなくなってしまう。その金額で利用してくださる方が一日に3組もあらわれるのでしょうか?

 

 車いすの方は、鉄道を利用するときは運賃は半額である。付き添いの方も一人までは半額になる。(たぶんほとんどの鉄道会社で)わたしがよく利用する鉄道では駅で駅員さんが渡り板を用意して待っていてくれて、介助してくれる。

 

 タクシーの場合、料金は半額にはならないが、障害者手帳があれば料金は一割引きになる。でも介助料金をとる業者が多いのである。鉄道はそんなものはとらないのに。駅でエレベーターを使っても追加料金なんかとらないのに。タクシーはとるのである。

 

 うちのタクシーが追加料金を取らないことに決めたのは、同じように追加料金をとらない業者が県内に2社ほどあった、ということが大きい。でもなによりも追加料金をとることは「合理的配慮」に欠けるからである。障害があろうがなかろうが、同じ料金をいただくことに何の問題もない。しかし公共サービスにおいて障害があるから追加料金となることになんの合理性も認められない。と、障がい者権利条約は謳っているのである。

 

 とはいえ、そういう追加料金をいただかないことにはうちのタクシーのように撤退することになってしまうのである。介護タクシーは流しの営業はできない。病院の前で「待ち」をすることもできない。そして施設入所者を乗せることも基本的にはできないのである。

 

 介護タクシーとは何なのか?ニーズは本当にあるのか?いろいろわからなくなってしまった。施設入所者や家庭内にこもりがちな認知症高齢者などの、QOL向上のためにと始めたタクシーだが、そろそろやめどきなのだろう。

 

 これを読んで、それでもやってみたいという方がいらっしゃたらぜひあの計算式でシュミレートしてみて欲しい。できれば追加料金はとらずにやって欲しいのだが。

 

 なぜ、施設入所者は介護タクシーを利用できないのか、という話と、病院などと契約して委託業者になれないのか、という話はまた別の機会に。

 

ハンセン病強制隔離政策

 日弁連法務研究財団が2005年3月に出した「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」は、2001年に元患者が提訴した「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟(2003年に熊本地裁で元患者側が勝訴し、国が控訴しなかったため判決が確定)をうけて、再発防止の観点からまとめられたものである。

 日本においては、1907年に「癩予防ニ関スル件」に始まり、1996年に「らい予防法(新法)」が廃止されるまでの間、ハンセン病患者は国家により強制的に収容されていた。こうした憲法違反の状態がなぜ90年間も続いてしまったのか、その責任はどこにあるのか、それを検証し再発を防ぐことがこの報告書の目的であった。

 医療界に責任がある事はもちろんだが、報告書はさらに法曹界福祉界、教育界、宗教界、患者団体、そしてマスコミにも責任の一端がある事を認めている。

 ハンセン病はかつては「業病」と言われ、あるいは遺伝病とも考えらえていた。それがらい菌の発見により伝染病であることが科学的に証明された。このことは患者にとって救いとはならず、「因習」による差別から「科学的」な差別へと質を変えただけの差別構造におかれたままとされた。

 「業病」あるいは遺伝病であれば、差別を受けていても社会のかたすみに存在が許される場所を確保することは可能であった。しかし伝染病となったことで、患者は家族や地域からひきはがされ、療養所に隔離されることになったのである。

 強制隔離が90年も続いたことの一つの要因として、社会からの隔離・排除がある。予防法と言う「制度」により患者は社会から排除された。患者の姿は社会から見えなくなってしまった。その時、社会から見えなくなってしまったものは、患者だけではない。医療者などの援助者も、そして隔離をすすめた「制度」すらも社会から見えなくなってしまったのである。

 こうした事例は、ナチスドイツ支配下のユダヤ人の問題と非常に似通っている。そして実は現在の障がい者や高齢者の問題でもある。社会的排除が好ましくないのは、当事者の人権が侵害されるためである。だが実はそれだけではない。排除が許されないのは、援助者も制度や援助技術も社会の側からコントロールできない質のものに変化させてしまうからなのである。 (もう少し続く)。

 

ハンセン病つながりで

ひょんなことから。

 

その1 黒川温泉事件のとき、ハンセン病と温泉というのは親和性があったような、となんとなく思っていました。

 

その2 群馬県社会福祉の歴史を調べていて、草津温泉の聖バルナバ・ミッションのことを知りました。

 

その3 地域包括ケアについて調べていて、猪飼周平先生にたどりつきました。プロフィールで猪飼先生のお父さんが、Wikipediaに載っていると書いてあり、(ご本人はまだ項目がない?)調べてみるとこれが猪飼隆明先生でした。

そこからハンナ・リデルに行きつき、強制隔離問題の報告書の存在を知りました。

 

この報告書がとても面白い(というのは元患者の方には失礼ですが)、というか、ためになります。

現在、社会福祉がかかえているすべての問題が、日本のハンセン病患者がたどった歴史に含まれているといっても過言ではありません。

 

黒髪校事件などというのは、1954年に起こっているのですが、ハンセン病患者の子どもの通学に反対するPTAが「同盟休校」をしてしまう事件、つまり、その子どもたちが通学できない様に学校をPTAがロックアウトしてしまう事件なのです。

アメリカ公民権運動のリトルロック高校事件が1957年ですから、それより3年も早くこうした事件が日本で起こっていたことに驚きました。

しかも、そのときそもそも在日朝鮮人・韓国人の子どもは通学する新入生のリストに入れてもらっていなかった、という事実もあるようです。

 

報告書はPDFで全文落とせます。1,000ページ以上あると思いますがとにかく読む価値のある物です。おすすめです。

 

ハンセン病と現在の社会福祉の抱える問題を真剣に考察すると、たぶんあと10年とか20年とかかかってしまいそうなので、ほんのすこしだけ次回考察してみます。