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「さくらのもり」で考えた。

社会福祉士が、福祉や社会保障についていろいろ考えてみるブログです。

生存率をかんがえた。

NPOをつくりたいと思っている。40歳から64歳までの末期がん患者さんの生活をサポートするNPOである。そのため、緩和ケアやがんについて調べることが多くなっている。

 

先ごろ、全がん協が最新の生存率データを公表した。このデータをなんとなく見て、話しのタネにしてしまうのはもったいない。そこで今回はこのデータをどう見るかについてかんがえてみたい。

 

www.zengankyo.ncc.go.jp

 

 

今回10年生存率がクローズアップされているのだが、自分はいつも5年生存率をみているので5年生存率のデータで見ていくこととする。

 

マスコミなどの紹介では、ステージごとに区切ったデータの紹介はあまり行われていなかった。しかしこのデータは、ステージごとの生存率の違いを見ることがとても重要である。

 

たとえば、食道がんの場合、5年生存率はステージ1では85.8%、ステージ2では55.1%、ステージ3で28.1%、ステージ4になると12.1%である。

 

おおざっぱだが、ステージ1はがんが原発臓器にとどまっている状態、2ではすこし広がっているか、リンパ節に少し転移している状態、3はかなり腫瘍が大きくなり、となりの臓器やリンパ節まで広がっている状態、4になると遠隔転移(はなれた臓器にまで転移している状態)があるというふうに見てほしい。

 

ちなみに5年というスケールのはじまりは、がんと診断されたときから。ということである。

 

つまり上のデータは、食道がんと診断されたとき、ステージ1といわれたら85.8%の人が5年後まで生存している。逆に言えば、14%強の人(7人に1人)は5年以内に亡くなってしまうという意味である。

 

食道がんと診断されたときすでにステージ4だったら、5年さきまで生存できる人は8人に1人しかいないということだ。

 

がんがどこにできるかで、5年生存率は大きく違う。転移しやすいがんもあるし、ステージ1や2では見つかりにくいがんもある。

 

同じステージ1と診断されても、食道がんの5年生存率が85.8%なのに対し、肝臓がんでは6割弱(58.9%)、膵がんでは4割(41.2%)と低くなる。一方、乳がんやぼうこうがん、甲状腺がんなどはステージ1で見つかればほぼ90から100%の人が5年後まで生き延びる。

 

つまり、ステージ1や2での5年生存率の高いがんや、ステージ1とステージ4で5年生存率が大きく異なるがんについては早くみつけたほうがいい、というのがこのデータの見方である。

 

同様のデータに、国立がん研究センターのデータがある。こちらはとても詳しいデータになっている。そして国立がん研究センターのサイトは、早期発見・早期診断の重要性について力を入れている。がん研究センターのデータは、ステージごとではなく、限局・領域・遠隔転移と分かれている。

 

 

ganjoho.jp

 

限局とは、原発臓器内にとどまっている状態、領域とは近くのリンパ節に転移しているか、あるいは隣接した臓器にまで及んでいる(浸潤)状態、遠隔転移とは離れた臓器に転移している状態ということである。

 

がん診療はとても進歩している。がんになることはそれほど怖いことではないし、がんで死ぬことも実はそんなに悪いことでは無くなってきている。それでも、やはり早期発見・早期診断は大切である。同じように5年間生き延びても、10年間生き延びても初期に発見・診断されるのと、ステージ4で発見されるのとでは、その5年・10年の時間の中身が大きく違うためである。

 

 

 

生活保護についてかんがえた。

社会福祉-社会保障

あいかわらず生活保護関連のニュースが多い。

 

www.sankei.com

 

生活保護の不正受給をする人は、全体のほんのわずかといわれるが、こわいのはこのタイプの不正受給である。過去には担当者が架空の人物を作り上げ、保護費を自分の口座に振り込ませていたというケースもあった。

 

生活保護はその性格上名寄せがしにくい。そもそも住民登録がなくても受給できるのだから、いくつかの自治体で受給することはそれほどむずかしくはない。

 

都市伝説のようなものとされている「ウェルフェア・クイーン」は実在していて、彼女のやり口もこの方法だった。

 

こうした不正を見抜くにはやはり身近な人の告発に頼るしかなく、「あのうちは保護世帯なのに羽振りがいい。」みたいな通報がきっかけになる。そうしたことは監視社会みたいでいやだという風潮もあるが、生活保護は納税者の税金で賄われていてその税金の使い道を市民がきっちりと監視するのは、民主国家としてあたりまえのことでもある。

 

生活保護にかんする記事で驚愕したのは、以下の記事である。

 

 

bylines.news.yahoo.co.jp

 

不正受給を市民が監視するのではなく、保護担当の職員をもっと増やすべきという意見もあるのだが、生活保護に関連する経費はとてつもなくかかっていることがこの記事からわかる。行政の経費も含めた保護世帯1世帯あたりの保護費が1千万を超える都道府県が5つもあるということには本当にびっくりしてしまう。それでもさらに職員を増員しなくてはならないのだろうか。

 

自治体が支出する保護費の何パーセントが実際の保護に使われ、事務経費が何パーセントなのか、そのあたりをきっちりと検証する必要があるのではないだろうか。ちなみにいろいろと騒がせた小田原市のある神奈川県は、保護世帯1世帯あたりの保護費は全国一位の1,154万円とのことである。

 

生活保護行政がむずかしいのは、他の社会福祉援助と異なりインフォーマルな(ボランタリーな)サービスの供給ができにくいという点がある。また政策決定に当事者がかかわらないという特徴もある。例えば認知症でいうと、新オレンジプラン策定の際、認知症の当事者(NPOの代表や患者の家族ではなく、認知症の本人)が意見表明を行い、政策立案に生かされた。しかし生活保護に関する政策立案の過程でそのようなことが行われてはいない。

 

さらに現在の生活保護行政を困難にしているのは、ひとつの制度に無年金者・低年金者と病弱者・母子(父子)世帯、という、おおざっぱにいうと2つの類型がのっているということもある。

 

無年金や低年金で施設などに居住している方の場合、生活保護を「卒業」することは考えにくいし、施設等で日常生活については相談等も受けているので担当者のかかわりは少なくてもかまわない。

一方、若年で病気や失業、離婚などのために生活保護を受給している方は、「卒業」する可能性があるので、担当者は自立に向けた援助を行う必要がある。

 

本来は2つの制度とすべきものを1つの制度でまかなっているため、いろいろと齟齬が生じている。ケースワーカー1人当たりの担当件数というのがよく取り上げられるが、自立を本当に支援すべき受給者なのか、無年金で高齢者施設に入所している受給者なのかで職員の負担は大きく変わるはずであるから、厚生労働省はそこをきちんと分析した資料を作成すべきなのかもしれない。

 

生活保護行政に対しては、誤解や偏見が多い。先の小田原市のケースで見てみる。

 

 

hbol.jp

 

記事を一部引用してみる。

---引用開始

確かに「不正受給」は悪い。詐欺罪に該当する場合もある。悪い行為を未然防止することは、「正義」ではあろう。しかし、現場の生活保護担当者は、あくまでも「法によって定められた手続きの執行官」であって、「正義の代弁者」でもなんでもない。あくまでも、生活保護法やその他の関連法令に則って、生活保護の審査・支給に関する手続きを進めるのが仕事だ。そこに、「正義」などの価値判断が入り込む余地などない。いや、むしろ、執行官がそうした価値判断を挟むことは危険ですらある。

 だが、生活保護の現場ではこの「正義」が横行している。どの市町村でも、資格審査の席で担当者が持ち出すのは、申請者の収入状況や資産の有無など、法が定める客観的な指標ではなく、まずは、「働けるのなら働け」「甘えてはいけない」などの「正義」だ。

 資格審査担当者が「正義」で申請者を「水際」ではねのけているのだ。全国的に横行している「生活保護の水際作戦」とはこのことに他ならない。

---引用終了

 

どの市町村でも、申請を受け付けるときには、資産の有無や収入について確認は行っているはずである。そして言い方の問題はあるのだろうが、補足性の原則というものが生活保護法にはあり(第4条)、資産・能力の活用が要件となっている以上、「働けるのなら働け」という言葉は決して法が定めていない「正義」ではないのだ。

 

あえて、小田原市の職員を擁護してみる。そもそもジャンパーが威圧的だったからと言って、彼らがある特定の受給者に「不正受給だろう」などと言いがかりをつけたことはなさそうである。よく市役所の壁からさがっている「市民税は納期までに納めましょう」という垂れ幕や、林道の入り口にある「不法投棄は犯罪です」などという掲示とさほど変わらないということもできる。

 

自分もいろいろと税金とかを滞納している状況なので、市役所の前を通るたびにいやな気持になるし、督促状が届いた日などは垂れ幕を見たくないので、わざと回り道をしたりもする。でもその掲示は「あたりまえのこと」を「一般的に」言っているので、反論できない。

 

「不正受給は悪である」というのはあたりまえのことであり、反論できないことであり、もし不正受給をしていてそれを目にしていやな気持になったとしても、それはその人の問題なのではないだろうか。

 

今回のケースの引き金になったと思われる事件があったらしい。何年か前に生活保護担当者が暴力を振るわれた事件である。刃物でさされたらしい。この時市役所の職員、生活保護担当以外の職員や市長を始めとする市の幹部はどう反応したのだろうか。理由はどうであれ、市の職員に対し暴力をふるうことは許されない、という明確な態度を取ったのだろうか。市長は明確なメッセージを発したのだろうか。市職員は一丸となって生活保護担当職員の安全を守ろうとしたのだろうか。

 

市役所において、おそらく生活保護担当職員はわりと日陰の存在なのだろう。みんなが希望するようなポジションでは決してないのだろう。そして生命の危険にさらされても同僚から守ってもらえなかった職員に対し、市長も市民もみずからの責任をはたさずに処分して問題解決を図ろうとしてよいのだろうか。

 

きちんとした発言を控えるために、問題を隠蔽するために多額の経費を投入し、自治体財政を圧迫しているそれが現在の生活保護行政の現状なのです。生活保護行政は憲法で保障された生存権を実際に保障するという、ある意味行政マンにとって最高の仕事であるはずなのです。そうした仕事にかかわる担当職員が職場でもっと尊敬され、尊重されることが必要なのではないでしょうか。

いじめについてかんがえた。

社会福祉

ひさしぶりの書き込みなので、ちょっと怖い話を書いてみたい。

 

これはある特定のケースではなく、このごろ見聞きしたいくつかのケースを組み合わせたものであることをご理解していただきたい。

 

中学生ぐらいの男の子が突然自殺してしまったとする。このごろ学校を休みがちで部屋にひきこもっていることが多かった子どもである。

 

亡くなった後、ご両親は子どもの部屋でびっしりと書き込まれたノートをみつける。小さい文字でびっしりと書き込まれていたのは、自分がいかに学校でいじめられているか、という記録である。いやがらせをされたこと、陰で悪口を言われたこと、そうしたことが書き込まれている。

 

両親はびっくりして学校にあるいは教育委員会に駆け込み調査を依頼する。しかし、学校も教育委員会も客観的ないじめの実態はなかったという結論を出し、そう報告する。マスコミは学校や教育委員会は事実を隠蔽していると非難し、両親は自治体を訴える。

 

裁判で両親の訴えが認められないこともあるし、自治体側が負けて多額の賠償金を支払わなければならなくなることもある。どちらにしてもこの経過の中で、学校やPTA、地域社会はぼろぼろになってしまう。

 

ここまで読んで精神医学にくわしい方なら気づいていただけるかもしれない。たとえばびっしり書き込まれたノートを手にすると、精神医学にくわしければある疑いをもつことがあるだろう。「ほんとうにこのいじめは存在したのだろうか?」と。

 

たとえばこの少年が統合失調症を発症していたとしたら。本人がノートにびっしりと書き込んでいたいじめとは、彼の幻覚・妄想だったとしたら。彼に向けられた悪口は幻聴だったのでは。

 

いじめ行為はなかったのである。彼が不登校気味になり、ひきこもってしまったのは「いじめ」が原因なのではなく、病気の症状のひとつにすぎなかったのである。そして自殺も、統合失調症の初期によくみられることである。

 

自殺をしてしまったあとでは、彼が統合失調症を発症していたかどうかということは確かめようがない。ただ言えるのは、もし統合失調症の影響によるものだとしたら、早く医療につなげていれば、彼も死なずにすみ、学校や地域社会もダメージを受けず、自治体も多額の出費をせずにすんだということなのである。

 

こうしたケースで自殺に失敗し、障害を負ってしまった人を知っている。彼は統合失調症と診断され、現在治療を受けている。身体的な障害も負ってしまっているため、社会復帰には時間がかかるものの、とにかく彼は生きているし、それなりにいきいきと日常生活を送っている。学校や地域社会はダメージを受けずにすみ、自治体も損害賠償を払わずにすんだ。

 

統合失調症を一般の人に説明するときに、「およそ100人にひとりがかかる病気です。」と言う。学校なら3クラスに一人は確実にいる計算である。統合失調症は若いときに罹患する疾病であり、中学生ぐらいで発症することはまれではあるとされているものの、可能性はそれほど低くはない。

 

もし中学生ぐらいの子どもがいじめを受けていると訴えていて、なかなか客観的な事実が見つからないときは、病気を疑うことも必要である。

 

いじめの訴えではなく、女性からのDVの訴えとか、職場でのパワハラとかいうケースもあるらしいのだが、そっちの話はほんとうに怖いので書けません。

がんについてかんがえた。

3連休初日の10月8日、RELAY_FOR_LIFEぐんまに行ってきました。リレー・フォー・ライフは、日本対がん協会が主催するチャリティーイベントです。日本各地で50か所ほどで開催されています。

 

イベントは会場のトラックをチームでリレーしながら、24時間歩き続けるというものです。

 

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ぐんま会場の参加者は、昨年6,800人以上だったということで、東京・上野に続く全国2番目の規模です。当日、前橋市内はお祭りで大渋滞でしたが、なんと会場のトラックも大渋滞。

 

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ぐんまならではといえば、こちらの「1・2の3で温泉に入る会」です。さすが温泉県。そしてあの釜飯のおぎのやさんも、地元J2のザスパクサツ群馬もチームを組んで参加していました。

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三連休の初日、いろいろ他のイベントなどもある中で、これだけの方々が参集し、サバイバー(がん患者)の支援を真剣に考えているということはすごいことです。実は群馬県はがんの緩和ケアに積極的な地域で、それは渋川医療センターという医療機関が先進的な取り組みを続けたことが大きな要因なのですが、その地道な努力がこうした大きなイベントで実を結んでいる気がします。

 

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ポーラ化粧品の「美女軍団」も参加していました。会場のテントでハンドマッサージを提供しています。その他、さまざまな団体が思い思いのいろいろな展示やサービス提供・物品販売を行っていました。

 

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リレー・フォー・ライフは、アメリカで始まりました。アメリカでは一周歩くごとにいくら、という募金をする寄付集めのイベントでした。それが日本では(もちろん募金もしますが)がん患者にかかわる医療や福祉、行政やNPO・ボランティアが親交をふかめるイベントになっています。

 

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がん治療は、特に緩和ケアはチームで取り組むケアです。そして医療機関や福祉・行政・NPOなどが一体となって患者を支えていくことが重要です。そのためにもこうしたイベントは意味が大きいと思いました。

 

10月10日は、5年前にこの世を去った洋子さんの61回目の誕生日になるはずの日でした。洋子さんがサバイバーであるうちにこうしたイベントをできたらという思いを抱えて会場を後にしました。(24時間もひとりじゃ歩けない!)

 

 

貧困JKについてもう少しかんがえた

40年近くとり続けていた新聞をやめちゃった、自分です。

今回はメディアについてすこしかんがえたいです。

 

メディアが今回のような報道をする動機とはなんなのでしょうか。広く国民に訴えて世論を形成し、政府に対策を打つよう促すためなのでしょうか。

 

それとも、単に視聴率や部数を稼ぐためなのでしょうか。もし「売れる」コンテンツとして貧困の話題を取り上げるだけなら、それしかしないのなら、メディアも立派な貧困ビジネスになりさがっています。

 

政策決定のための世論喚起も重要です。しかしメディアにはもっと大きな責任があるのではないでしょうか。

 

たとえば現に貧困に陥っている視聴者、読者のために有益な情報(たとえばPCが買えない人のために、無料で使えるPCのある場所の情報など)を放送や紙面を通じて伝えることはできないのでしょうか。

 

貧困家庭の子どもに同情して、なにか手助けができないかと考えている人に適切な支援の方法(政府反対みたいなデモ行進の情報ではなく)をアドバイスすることはしているのでしょうか。

 

実名をさらす形でコンテンツを制作し、そこで得た収益をメディアの側で独り占めしていていいのでしょうか。そこで得た収益の一定部分をきちんと貧困JK、Uさんに還元すべきではないのでしょうか。

 

新聞社は貧困家庭の子どもが経済的理由で進学をあきらめなければならない、という現実を目にしたときに、なぜ新聞奨学生という諸外国にも例のないすばらしい制度を記事にしないのでしょうか。一日にほんの数時間、新聞を配るだけで返済しなくてもいい奨学金がもらえ、しかも住むところと食事も提供されるという制度です。子どもの貧困を取り上げるときには、同時に一面の半分ぐらいを使って紹介してもいいのではないでしょうか。それともあまり読者にすすめられない制度なのでしょうか。

 

自分の子どもは、実は新聞奨学生をやりながら(Uさんが進学を希望しているような)アニメの専門学校に通い卒業しました。ああいう専門学校は学費が高いため、新聞社が出す奨学金では足りず、卒業時に100万以上のお金を出すことになってしまったのですが、それでもとにかくわが家のような貧困家庭でもアニメ専門学校にやることはできました。

 

子どもの貧困の問題は社会全体で解決すべき問題です。そして社会全体というときには、メディア自身も、読者や視聴者も、さらに生活困窮者本人も含まれているのです。

 

現在のメディアの姿勢は、貧困問題をアベノミクスなどのせいにして、単に政権攻撃のための材料として利用しているだけにしか見えません。Uさんにとってみれば、国会で自分のことが取り上げられ、いろいろ審議されなにか政策化されることよりも、NHKも制作にからんでいるアニメの現場にインターンシップとして参加させてもらえるとか、Eテレの子ども番組のキャラクターの作画をやらせてもらうとか、そういう直接的な支援のほうがうれしいのではないでしょうか。

 

今回のUさんの問題に対し、冷泉彰彦さんが的確なコラムを出してくださいました。さすが鋭いなと思っていたら、一方で湯浅誠さんがまるで転向声明みたいな文章を書いているし。もうステレオタイプな貧困報道はやめにしませんか。

貧困JKについてかんがえた

バブルの余韻の残っていたころ、知り合いに”自分氏は貧乏をエンジョイしてるね”と、言われたことのある自分です。

 

いわゆる貧困JK炎上騒ぎを傍観していて、女子高生側を養護する論調にある種の違和感を感じています。2ちゃんねらーが突っ込みを入れているのは、そもそも高価な画材やぜいたくなランチの部分ではないのではないかと。

 

その辺をうまく解説してくれているのが、アゴラの中沢良平さんとかBLOGOSの増沢隆太さんの論調だと思います。今回の彼女、とりあえずUさんとしておきますが、の悩み、”入学金が払えなくてアニメの専門学校に進学できない”というのは貧困とは別の話です。

 

自分としては、Uさんの母親の話を聞いてみたいと思います。高校生ぐらいの子どもが、声優になりたいとか、Uさんのようにアニメのキャラデザインを専門学校で学びたいなどと子どもが言い出したとき、親としてはそんなちゃんとした就職先もないようなところに行かないでふつうの学校に進学して、ふつうの会社に就職してお給料をもらって、アニメは趣味として楽しめばいいでしょう、とアドバイスするわけです。

 

その時に、親の側は”うちにはそんな余裕はない”ということも言うわけです。こうした会話はとくに今の時期、日本中の多くの家庭でなされていて、母子家庭だけでなく年収600万とか800万とかいう家庭でもされているわけです。この問題はわりと古典的な問題で、あの「風立ちぬ」の堀辰夫なんかもたしか親戚とそんなやりとりをしていたような記憶があります。

 

Uさんが本当にアニメのキャラデザインを仕事として選択し、そのためなら多少しんどくてもかまわないというのなら、お金がなくても夢をかなえる方法はあります。たとえば自分が以前お話を伺った若い方は、公共職業訓練を利用し、無料というかお手当つきで専門学校に通い、CGだかWeb制作だかを学んでいました。もちろん目的はAdobeのCCが無料で使える、しかも学校のそれなりにハイスペックなマシン上で、という不純なものでしたが。

 

もしUさんがただワンピースが好きなだけ、というのであればやはり世間一般の親たちの言うように、きちんと就職して趣味は趣味として楽しむのが賢明だと思います。

 

貧困報道などに物申してしまうと、なにか自動的にスイッチが入って熱のこもった擁護をしてしまう意識の高い方々も多いのですが、自分はそうした論調にはやはり違和感を感じます。政府はUさんが夢をかなえることを邪魔してはならないのですが、夢をかなえることを保証するような政策をとる必要はないのではないでしょうか。

 

この話、もう少し続けます。

パチンコについてかんがえた。

みわ氏の文章「パチンコを責められない生活保護ケースワーカーの葛藤」

を読んでひさしぶりになにか書きたくなったので、まとまりのないままに書いてみます。

 

このごろのみわ氏の文章は以前ほど迫力が無くなってきて丸くなってきていますが、それでも少しは突っこみどころはあります。例えばこんなところです。

 

スマートフォンをつつきながら生活保護を受けている」若年の生活保護利用者たちが、医療機関の職員たちに「なぜこういう人が生活保護なのか」という疑問を持たれている(2011年12月12日 第2回「生活保護 制度に関する国と地方の協議」議事録における岡崎高知市長の発言)

という意見を紹介しつつ、

 

もと電機メーカーの「中の人」であった自分の立場から一言突っ込むと、ハードやアプリを提供する企業に対する開発・生産コスト、ひいては消費者に対するコストを下げる役割を果たしているのがスマートフォンだ 。もしも生活保護利用者のために、いわゆる「ガラケー」の開発体制や生産ラインを維持したら、かえって高くつくことになりかねない。しかし「ガラケーの方が高くつく」と説明しても、相手は納得しない。

 


と、見当違いに返してしまっています。議事録をきちんと読むと”若年層の失業者を、生活保護で救済するのではなく、雇用保険などの別の制度で救済すべき”という話の流れではないかと思われます。また医療関係者がスマホを問 題視していたとしても、それは「生保」のくせに、ということではなくおそらくその若者が(病院の待合室などで)スマホゲーにはまっていて、それなりに課金などもしていることを問題視しているのではないでしょ うか。

 

スマホ」というワードに過剰に反応してしまい、見当違いの反論をかましてしまうという構造はみわ氏の文章にはよく見られるものです。みわ氏が「パチンコ」というワードに反応してしまうこともこうした「生活保護叩き」叩きの戦略の一つであることは確かでしょう。

 

生活保護とパチンコという問題は、兵庫県小野市の条例に始まり、今回の大分県別府市で再度社会問題として認識されています。パチンコをする生活保護受給者を擁護する理屈にはいくつかのものがあります。そもそも「保護費を何に使うかは個人の自由である。」とか「文化的な生活には娯楽も当然ながら含まれる。パチンコも度を過ぎなければ健全な娯楽であるからかまわないし、過度にホールに通っているのならばそれは依存
症という病気であるから、受給者本人を責める事はできない。」などという理屈です。

 

しかし生活保護とパチンコと言う問題は、実はもっと大きな問題を含んでいるのです。上記のような些末な理屈で問題を終わらせてはもったいないのです。ここに2つのキーワードを投下してみます。1つは「有権者(納税者)」であり、もう1つは「地方」というキーワードです。

 

まず有権者(納税者)です。私たちはみな貧困におちいるリスクを負っています。生活保護制度はそのためのセーフティーネットであり、社会保障制度のひとつということになっています。生活保護制度を含む困窮者に対する救済制度は、国の制度であるとともに自治体ごとに独自の制度を作ることも可能です。

 

たとえばある自治体で生活保護の申請要件を、他の自治体よりも大幅に緩和し、また生活保護で救済しきれない部分まで手厚く保護する制度を創設したらどうなるでしょう。もちろん費用のかかる問題ですから当然税金は高くなるし、そうでなければ他の経費、道路や学校などの経費を縮減することになります。こうした政策に有権者の理解は得られるのでしょうか。

 

さらに日本の生活保護制度は申請主義であると同時に「現状保護」です。つまりホームレスなどで住所地が無い場合、最寄りの(あるいは保護を受けたい地域の)福祉事務所で申請することができます。例えば別府市生活保護の申請をとてもしやすくし、さらに他の自治体にないような付加的な給付をおこなえば、別府市に縁のない人たちも申請にやってくることが考えられるわけです。そしてその給付に必要な財源の何割かは別
府市民が負担することになってしまうわけです。

 

生活困窮者にやさしい自治体というのはなかなかできないものですし、もしそうした自治体ができたとしても他の自治体から流入してくる困窮者は排除することでしか有権者の理解は得られないでしょう。生活保護受給者がパチンコをすることがいいのか悪いのかということは、善悪の問題でもなく、倫理的な問題でも人権や憲法の問題でもなく、その自治体の税金の使われ方の問題であり、その自治体の有権者の判断にゆだねられ
るべき問題なのです。なぜそんなことがまかり通るのか、と憤る方もいらっしゃるかと思いますが日本は「民主国家」なのですからしかたないのです。

 

次に地方という問題についてかんがえます。貧困の連鎖ということが話題になり、子どもの貧困を解決するためのさまざまな施策が提案されています。しかしここに「地方」というキーワードを投下してみましょう。


別府市や小野市の貧困家庭の子どもにさまざまな援助をし、今までなら高校卒業か高校中退で社会に出るしかなかった子どもが大学や大学院に進学してより収入の多い職に就くということを考えてみましょう。

 

その子どもは別府市の大学に行くのでしょうか。別府市にある2つの大学でその子どもの可能性は引き出しきれるのでしょうか。小野市にそもそも大学はあるのでしょうか。その子どもは大学に進学するとともに別府市からあるいは小野市から離れ、多くはそのまま福岡市や関西圏、あるいは首都圏で就職してしまうでしょう。そうした制度の創設に地方の有権者は理解を示すのでしょうか。

 

貧困家庭に支援を行い、貧困家庭の子どもを貧困から脱出させるという政策は、国全体からみればかなり有効な政策です。しかし地方からみると決していい選択とはいえないのです。子どもたちが納税し社会保険料を負担してくれるころにはその地方を離れ、大都会で納税してしまうのです。コストパフォーマンスの悪い政策となってしまいます。それなら土壌改良や基盤整備を行って農業収入を増やしたり、区画整理をして地価を
上げ固定資産税を高くしたり、ロードサイドに大型店を誘致するというような「公共事業的」な税金の使い方のほうが投資効果は高いですし、目に見える政策のため有権者の支持も得やすいのです。

 

パチンコをする生活保護受給者はけしからん。とか、貧困の連鎖を断ち切れ。などという論議に「有権者」というワードと「地方」というワードを追加するだけで、より深い問題がみえてきます。若い人たちに乏しい財源の中から援助を行ったあげく果実は大都市にとられてしまうよりも、低学歴のままで低収入に甘んじて地元に残ってくれることのほうが地方にとってはありがたいことなのかもしれません。

 

わたしは、小野市や別府市の判断は、有権者の判断である限りにおいて、正しいと思います。国や都道府県がその判断に対し異議をとなえる事は越権行為であると思います。同様に自らの懐を傷めない大都市在住の評論家や活動家の方々などの意見も無用と思っています。貧困の連鎖を食い止める政策は、地方からの収奪を加速する政策になりかねないという点と、学歴や所得だけで幸福度は測れないのではないかという疑問、(都
会で消耗するの?)という問題、そして地方自治体における有権者の自決権という観点から考えてのことです。

 

おそろしい想像になってしまいますが、貧困層は本来、中間層や高所得者より流動性は高いのですから、貧困層に「冷たい」自治体から貧困層が逃げ出し、貧困層に「やさしい」自治体に流入するという時代がやってくるのかもしれません。概念として人道的な政策は「かっこいい」のですが、どこまで有権者は負担に耐えてくれるのでしょうか。昨今の欧州における難民問題を見るとそう思います。そうなった時に、「たかがパチ
ンコぐらいがまんできなかったのか?」という問いが生じるかもしれません。

 

付記)生活保護あるいは生活扶助は社会保障制度のひとつとなっていますが、そもそもすべての国民がほぼ同じ率で貧困におちるわけではないという意味で、他の社会保障(医療や介護、老齢年金など)と同様に扱うことはできないと思います。これはいわゆる貧困の連鎖の問題ではない部分での話としてです。病気になったり高齢になることは想像できても、ホームレスになることは絶対に想像できないし、そうならないであろう人に対し、慈善的な発想ではなく所得移転という考え方で生活保護や社会扶助に税金をおさめてもらうということはむずかしいのです。この話はまた改めておこなう予定です。

 

 

保護のてびき[平成27年度版]

保護のてびき[平成27年度版]