「さくらのもり」で考えた。

社会福祉士が、福祉や社会保障についていろいろ考えてみるブログです。

困窮者の生存権

修論作成に向けた連”ツイ”です。

 

 社会福祉の理念を、憲法上の生存権あるいは幸福追求権に求める動きというものはある。この生存権(25条)はさかのぼれば、ロックが自然法上の権利とした「慈愛の権利」にある。

 すなわちロックの言う「極度の欠乏に陥った困窮者が生存のための財を要求する権利」であり、Ashcraftは、この権利は「実定法に反してでも主張できる」一般的な自然権であるとしている。

 ロックの慈愛の権利について注意すべきは、「神が、困窮する同胞に、所有者の財の余剰への権利を与えた」としるしていることにある。すなわち、困窮者にとって、慈愛の権利とは神によって与えられた権利であり、神によって保障された権利であるという点にある。

 慈愛の権利が行使されるためには、余剰の財をもつ所有者の救済義務が必要となる。この義務はどのように導き出されるかというと、「同胞を救済することを欠くがゆえに同胞を死なせてしまうとしたら、それは資産のあるいかなる人にとっても、常に罪(sin)となるから」である。

 神によって困窮者に与えられた「慈愛の権利」は、余剰財の所有者の「神への義務」に対応している。

 神の存在から離れた日本国憲法における「生存権」において、生存権をどう保障するかという論議は不充分である。困窮者の権利に対応するものは、「国家の義務」あるいは「国家の責任」というはなはだ実態のとぼしい概念であるのか、あるいは余剰財を所有する国民の責務であるのか、この点をはっきりさせた議論は意外にもおこなわれていない。

 Simmonsは、ロックの「慈愛」が成立する要件を3点に整理している。①他に生存の手段がない場合の権利、②極度の窮乏から逃れるだけの権利、③他人の財産の余剰のみへの権利である。この3点の整理と、わが国の生活保護法の原則がどのように類似しているかについては、次回以降。

 

 

数理モデル?

***この文は、書きかけであります。

     決して引用などなさらぬようお願い申し上げます。***

 

 社会保障とか、社会福祉の数理的なモデルというものを考えています。社会保障のシステムには、再分配という機能があるということになっていて、それならすべての国民は生涯のうちで、負担より受益の多い人と負担のほうが多い人のどちらかに分かれるはずなのです。

 

 ではその境目というのは、年収いくらぐらい、あるいは生涯収入いくらぐらいのところにあるのか、という計算はとてもむずかしいものです。

 

 ただ、感覚としては、計算上での境目のラインと、現実に制度化されている境目のラインとがずれていて、そのずれのぶんだけ国庫の負担が発生しているということだと思われるのです。

 

 日本の社会保障は、基本的には保険ですから、収支が均衡しなくてはおかしいわけで、そうなっていない状況というものは政治的に作り出されているということです。

2020/2/25

修士論文を書く

***この文は、書きかけであります。

     決して引用などなさらぬようお願い申し上げます。***

 

 修士論文というものを書きたくなって、某福祉大学の通信大学院にもぐりこんで一年。留年が決定してしまって、春から書き始める予定だった修論は、一年間おあずけになってしまった。

 

 いろいろなアイデアを忘れないようにと、ここに保存しておくわけです。

 

 修論のテーマは、「権利の言葉だけで、福祉原論が構築できるか」というものです。これはなかなか指導教官に評判の悪いテーマでありまして。

 

 そもそも何がやりたいのかわからない、という声も聞こえてくるわけですから、そのあたりもここで明らかにしておきたいのです。

2020/2/25

宇崎ちゃんは、照れくさい

今さらですが。

 

「宇崎ちゃん」の献血コラボが一部で問題になったそうで、

いろいろな見方はあるのでしょうが、あれは単純にマーケティングの問題と考えたほうがいいのではないでしょうか。

 

例えば、献血すると「マザーテレサのポスターをもらえます」キャンペーンと、「美少女アニメポスターをもらえます」キャンペーンを同時にやってみれば、当たり前だが、美少女アニメキャンペーンのほうがいい成績を残す。

 

もちろんお上品なのは、「マザーテレサ」のほうかもしれないが、そもそもお上品な方たちは献血になんか来てくださらないし、来てくださったところで血が薄くて使い物にならないのである。

 

「宇崎ちゃん」のポスターを排除したところで、なんら問題は解決しないわけで、それならお上品な方たちが積極的に献血に行くとか、お上品な方たちの血をもうすこし濃くするとかのほうが大事なんですね。

 

このあたりは、日本赤十字もわかっていて、ああいういちゃもんがついたところで、今後もアニメとかゲームとかのコラボキャンペーンは続けていくだろうし、献血に行ったら「マザーテレサ」とか「グレタちゃん」のポスターをもらえるなんてことは、起こらないだろう。

 

弁護士先生も含め、多くの方が見逃していらっしゃるのは、あれは「照れかくし」の道具なんだということ。若い男性が献血にいったとき、「善人」と思われるのはなかなか恥ずかしいものである。少しワルぶってるほうがなんかかっこいい気もするわけで、そんな時に「宇崎ちゃんのポスターくれるっていうから、行ってみたらいきなり血ぃ抜かれちゃってさ」みたいな言い訳を提供しているんです。

 

あの騒動がどう終息していっているのかしらないが、一番いいのは弁護士先生やあのキャンペーンがセクハラだという方々は、怒りのツイートなんかしないで、献血に行って実況ツイートすることです。

 

お上品なキャンペーン、例えば上野千鶴子女史のサイン色紙とかがもらえるキャンペーンのほうが、「宇崎ちゃん」より献血者が集まるのなら、日本赤十字社もそういうキャンペーンをはるのではないでしょうか。しょせんはマーケティングですから。

今さらながら、少女像

 現代美術好きとしては、複雑な気持ちです。

 

 あれがアートか?といわれると、やっぱり違うのではと思うし。アートでもないものを引きずり出してきて、表現の自由とか言われてもね。

 

 確かに現代美術では、アートとされるものの幅は広いのだけれど。そこまで行ってしまうのなら、ガソリン携行缶を持って美術展に行くという行為も、アートです。

 

 あの像がアートになるとすれば、歴史的に生き残ったときですね。ただアートが生き残るには、やはり「慰安婦」とか「戦争犯罪」というレッテルをはがさなくては。

 

 ミケランジェロピエタ像を見て、「横暴なローマ帝国」を思う人っているのでしょうか。アートってそういうものでしょう。

 

 今回、ゲルニカを引き合いに出している人がいて、少しびっくりしたのだが、もはやゲルニカも歴史的事実から解放されつつあるのだと思います。

 

 アートというのは、やはり「生」ではだめで、そのへんを勉強するには岡本太郎画伯が一番なのでは。

 

 ま、今回いろいろな人の本性があぶりだされておもしろかったし、M山という人はやはりダメな人だということが再確認出来て、それはよかったと思います。

生存率をかんがえた。

NPOをつくりたいと思っている。40歳から64歳までの末期がん患者さんの生活をサポートするNPOである。そのため、緩和ケアやがんについて調べることが多くなっている。

 

先ごろ、全がん協が最新の生存率データを公表した。このデータをなんとなく見て、話しのタネにしてしまうのはもったいない。そこで今回はこのデータをどう見るかについてかんがえてみたい。

 

www.zengankyo.ncc.go.jp

 

 

今回10年生存率がクローズアップされているのだが、自分はいつも5年生存率をみているので5年生存率のデータで見ていくこととする。

 

マスコミなどの紹介では、ステージごとに区切ったデータの紹介はあまり行われていなかった。しかしこのデータは、ステージごとの生存率の違いを見ることがとても重要である。

 

たとえば、食道がんの場合、5年生存率はステージ1では85.8%、ステージ2では55.1%、ステージ3で28.1%、ステージ4になると12.1%である。

 

おおざっぱだが、ステージ1はがんが原発臓器にとどまっている状態、2ではすこし広がっているか、リンパ節に少し転移している状態、3はかなり腫瘍が大きくなり、となりの臓器やリンパ節まで広がっている状態、4になると遠隔転移(はなれた臓器にまで転移している状態)があるというふうに見てほしい。

 

ちなみに5年というスケールのはじまりは、がんと診断されたときから。ということである。

 

つまり上のデータは、食道がんと診断されたとき、ステージ1といわれたら85.8%の人が5年後まで生存している。逆に言えば、14%強の人(7人に1人)は5年以内に亡くなってしまうという意味である。

 

食道がんと診断されたときすでにステージ4だったら、5年さきまで生存できる人は8人に1人しかいないということだ。

 

がんがどこにできるかで、5年生存率は大きく違う。転移しやすいがんもあるし、ステージ1や2では見つかりにくいがんもある。

 

同じステージ1と診断されても、食道がんの5年生存率が85.8%なのに対し、肝臓がんでは6割弱(58.9%)、膵がんでは4割(41.2%)と低くなる。一方、乳がんやぼうこうがん、甲状腺がんなどはステージ1で見つかればほぼ90から100%の人が5年後まで生き延びる。

 

つまり、ステージ1や2での5年生存率の高いがんや、ステージ1とステージ4で5年生存率が大きく異なるがんについては早くみつけたほうがいい、というのがこのデータの見方である。

 

同様のデータに、国立がん研究センターのデータがある。こちらはとても詳しいデータになっている。そして国立がん研究センターのサイトは、早期発見・早期診断の重要性について力を入れている。がん研究センターのデータは、ステージごとではなく、限局・領域・遠隔転移と分かれている。

 

 

ganjoho.jp

 

限局とは、原発臓器内にとどまっている状態、領域とは近くのリンパ節に転移しているか、あるいは隣接した臓器にまで及んでいる(浸潤)状態、遠隔転移とは離れた臓器に転移している状態ということである。

 

がん診療はとても進歩している。がんになることはそれほど怖いことではないし、がんで死ぬことも実はそんなに悪いことでは無くなってきている。それでも、やはり早期発見・早期診断は大切である。同じように5年間生き延びても、10年間生き延びても初期に発見・診断されるのと、ステージ4で発見されるのとでは、その5年・10年の時間の中身が大きく違うためである。

 

 

 

生活保護についてかんがえた。

あいかわらず生活保護関連のニュースが多い。

 

www.sankei.com

 

生活保護の不正受給をする人は、全体のほんのわずかといわれるが、こわいのはこのタイプの不正受給である。過去には担当者が架空の人物を作り上げ、保護費を自分の口座に振り込ませていたというケースもあった。

 

生活保護はその性格上名寄せがしにくい。そもそも住民登録がなくても受給できるのだから、いくつかの自治体で受給することはそれほどむずかしくはない。

 

都市伝説のようなものとされている「ウェルフェア・クイーン」は実在していて、彼女のやり口もこの方法だった。

 

こうした不正を見抜くにはやはり身近な人の告発に頼るしかなく、「あのうちは保護世帯なのに羽振りがいい。」みたいな通報がきっかけになる。そうしたことは監視社会みたいでいやだという風潮もあるが、生活保護は納税者の税金で賄われていてその税金の使い道を市民がきっちりと監視するのは、民主国家としてあたりまえのことでもある。

 

生活保護にかんする記事で驚愕したのは、以下の記事である。

 

 

bylines.news.yahoo.co.jp

 

不正受給を市民が監視するのではなく、保護担当の職員をもっと増やすべきという意見もあるのだが、生活保護に関連する経費はとてつもなくかかっていることがこの記事からわかる。行政の経費も含めた保護世帯1世帯あたりの保護費が1千万を超える都道府県が5つもあるということには本当にびっくりしてしまう。それでもさらに職員を増員しなくてはならないのだろうか。

 

自治体が支出する保護費の何パーセントが実際の保護に使われ、事務経費が何パーセントなのか、そのあたりをきっちりと検証する必要があるのではないだろうか。ちなみにいろいろと騒がせた小田原市のある神奈川県は、保護世帯1世帯あたりの保護費は全国一位の1,154万円とのことである。

 

生活保護行政がむずかしいのは、他の社会福祉援助と異なりインフォーマルな(ボランタリーな)サービスの供給ができにくいという点がある。また政策決定に当事者がかかわらないという特徴もある。例えば認知症でいうと、新オレンジプラン策定の際、認知症の当事者(NPOの代表や患者の家族ではなく、認知症の本人)が意見表明を行い、政策立案に生かされた。しかし生活保護に関する政策立案の過程でそのようなことが行われてはいない。

 

さらに現在の生活保護行政を困難にしているのは、ひとつの制度に無年金者・低年金者と病弱者・母子(父子)世帯、という、おおざっぱにいうと2つの類型がのっているということもある。

 

無年金や低年金で施設などに居住している方の場合、生活保護を「卒業」することは考えにくいし、施設等で日常生活については相談等も受けているので担当者のかかわりは少なくてもかまわない。

一方、若年で病気や失業、離婚などのために生活保護を受給している方は、「卒業」する可能性があるので、担当者は自立に向けた援助を行う必要がある。

 

本来は2つの制度とすべきものを1つの制度でまかなっているため、いろいろと齟齬が生じている。ケースワーカー1人当たりの担当件数というのがよく取り上げられるが、自立を本当に支援すべき受給者なのか、無年金で高齢者施設に入所している受給者なのかで職員の負担は大きく変わるはずであるから、厚生労働省はそこをきちんと分析した資料を作成すべきなのかもしれない。

 

生活保護行政に対しては、誤解や偏見が多い。先の小田原市のケースで見てみる。

 

 

hbol.jp

 

記事を一部引用してみる。

---引用開始

確かに「不正受給」は悪い。詐欺罪に該当する場合もある。悪い行為を未然防止することは、「正義」ではあろう。しかし、現場の生活保護担当者は、あくまでも「法によって定められた手続きの執行官」であって、「正義の代弁者」でもなんでもない。あくまでも、生活保護法やその他の関連法令に則って、生活保護の審査・支給に関する手続きを進めるのが仕事だ。そこに、「正義」などの価値判断が入り込む余地などない。いや、むしろ、執行官がそうした価値判断を挟むことは危険ですらある。

 だが、生活保護の現場ではこの「正義」が横行している。どの市町村でも、資格審査の席で担当者が持ち出すのは、申請者の収入状況や資産の有無など、法が定める客観的な指標ではなく、まずは、「働けるのなら働け」「甘えてはいけない」などの「正義」だ。

 資格審査担当者が「正義」で申請者を「水際」ではねのけているのだ。全国的に横行している「生活保護の水際作戦」とはこのことに他ならない。

---引用終了

 

どの市町村でも、申請を受け付けるときには、資産の有無や収入について確認は行っているはずである。そして言い方の問題はあるのだろうが、補足性の原則というものが生活保護法にはあり(第4条)、資産・能力の活用が要件となっている以上、「働けるのなら働け」という言葉は決して法が定めていない「正義」ではないのだ。

 

あえて、小田原市の職員を擁護してみる。そもそもジャンパーが威圧的だったからと言って、彼らがある特定の受給者に「不正受給だろう」などと言いがかりをつけたことはなさそうである。よく市役所の壁からさがっている「市民税は納期までに納めましょう」という垂れ幕や、林道の入り口にある「不法投棄は犯罪です」などという掲示とさほど変わらないということもできる。

 

自分もいろいろと税金とかを滞納している状況なので、市役所の前を通るたびにいやな気持になるし、督促状が届いた日などは垂れ幕を見たくないので、わざと回り道をしたりもする。でもその掲示は「あたりまえのこと」を「一般的に」言っているので、反論できない。

 

「不正受給は悪である」というのはあたりまえのことであり、反論できないことであり、もし不正受給をしていてそれを目にしていやな気持になったとしても、それはその人の問題なのではないだろうか。

 

今回のケースの引き金になったと思われる事件があったらしい。何年か前に生活保護担当者が暴力を振るわれた事件である。刃物でさされたらしい。この時市役所の職員、生活保護担当以外の職員や市長を始めとする市の幹部はどう反応したのだろうか。理由はどうであれ、市の職員に対し暴力をふるうことは許されない、という明確な態度を取ったのだろうか。市長は明確なメッセージを発したのだろうか。市職員は一丸となって生活保護担当職員の安全を守ろうとしたのだろうか。

 

市役所において、おそらく生活保護担当職員はわりと日陰の存在なのだろう。みんなが希望するようなポジションでは決してないのだろう。そして生命の危険にさらされても同僚から守ってもらえなかった職員に対し、市長も市民もみずからの責任をはたさずに処分して問題解決を図ろうとしてよいのだろうか。

 

きちんとした発言を控えるために、問題を隠蔽するために多額の経費を投入し、自治体財政を圧迫しているそれが現在の生活保護行政の現状なのです。生活保護行政は憲法で保障された生存権を実際に保障するという、ある意味行政マンにとって最高の仕事であるはずなのです。そうした仕事にかかわる担当職員が職場でもっと尊敬され、尊重されることが必要なのではないでしょうか。