「さくらのもり」で考えた。

社会福祉士が、福祉や社会保障についていろいろ考えてみるブログです。

パチンコについてかんがえた。

みわ氏の文章「パチンコを責められない生活保護ケースワーカーの葛藤」

を読んでひさしぶりになにか書きたくなったので、まとまりのないままに書いてみます。

 

このごろのみわ氏の文章は以前ほど迫力が無くなってきて丸くなってきていますが、それでも少しは突っこみどころはあります。例えばこんなところです。

 

スマートフォンをつつきながら生活保護を受けている」若年の生活保護利用者たちが、医療機関の職員たちに「なぜこういう人が生活保護なのか」という疑問を持たれている(2011年12月12日 第2回「生活保護 制度に関する国と地方の協議」議事録における岡崎高知市長の発言)

という意見を紹介しつつ、

 

もと電機メーカーの「中の人」であった自分の立場から一言突っ込むと、ハードやアプリを提供する企業に対する開発・生産コスト、ひいては消費者に対するコストを下げる役割を果たしているのがスマートフォンだ 。もしも生活保護利用者のために、いわゆる「ガラケー」の開発体制や生産ラインを維持したら、かえって高くつくことになりかねない。しかし「ガラケーの方が高くつく」と説明しても、相手は納得しない。

 


と、見当違いに返してしまっています。議事録をきちんと読むと”若年層の失業者を、生活保護で救済するのではなく、雇用保険などの別の制度で救済すべき”という話の流れではないかと思われます。また医療関係者がスマホを問 題視していたとしても、それは「生保」のくせに、ということではなくおそらくその若者が(病院の待合室などで)スマホゲーにはまっていて、それなりに課金などもしていることを問題視しているのではないでしょ うか。

 

スマホ」というワードに過剰に反応してしまい、見当違いの反論をかましてしまうという構造はみわ氏の文章にはよく見られるものです。みわ氏が「パチンコ」というワードに反応してしまうこともこうした「生活保護叩き」叩きの戦略の一つであることは確かでしょう。

 

生活保護とパチンコという問題は、兵庫県小野市の条例に始まり、今回の大分県別府市で再度社会問題として認識されています。パチンコをする生活保護受給者を擁護する理屈にはいくつかのものがあります。そもそも「保護費を何に使うかは個人の自由である。」とか「文化的な生活には娯楽も当然ながら含まれる。パチンコも度を過ぎなければ健全な娯楽であるからかまわないし、過度にホールに通っているのならばそれは依存
症という病気であるから、受給者本人を責める事はできない。」などという理屈です。

 

しかし生活保護とパチンコと言う問題は、実はもっと大きな問題を含んでいるのです。上記のような些末な理屈で問題を終わらせてはもったいないのです。ここに2つのキーワードを投下してみます。1つは「有権者(納税者)」であり、もう1つは「地方」というキーワードです。

 

まず有権者(納税者)です。私たちはみな貧困におちいるリスクを負っています。生活保護制度はそのためのセーフティーネットであり、社会保障制度のひとつということになっています。生活保護制度を含む困窮者に対する救済制度は、国の制度であるとともに自治体ごとに独自の制度を作ることも可能です。

 

たとえばある自治体で生活保護の申請要件を、他の自治体よりも大幅に緩和し、また生活保護で救済しきれない部分まで手厚く保護する制度を創設したらどうなるでしょう。もちろん費用のかかる問題ですから当然税金は高くなるし、そうでなければ他の経費、道路や学校などの経費を縮減することになります。こうした政策に有権者の理解は得られるのでしょうか。

 

さらに日本の生活保護制度は申請主義であると同時に「現状保護」です。つまりホームレスなどで住所地が無い場合、最寄りの(あるいは保護を受けたい地域の)福祉事務所で申請することができます。例えば別府市生活保護の申請をとてもしやすくし、さらに他の自治体にないような付加的な給付をおこなえば、別府市に縁のない人たちも申請にやってくることが考えられるわけです。そしてその給付に必要な財源の何割かは別
府市民が負担することになってしまうわけです。

 

生活困窮者にやさしい自治体というのはなかなかできないものですし、もしそうした自治体ができたとしても他の自治体から流入してくる困窮者は排除することでしか有権者の理解は得られないでしょう。生活保護受給者がパチンコをすることがいいのか悪いのかということは、善悪の問題でもなく、倫理的な問題でも人権や憲法の問題でもなく、その自治体の税金の使われ方の問題であり、その自治体の有権者の判断にゆだねられ
るべき問題なのです。なぜそんなことがまかり通るのか、と憤る方もいらっしゃるかと思いますが日本は「民主国家」なのですからしかたないのです。

 

次に地方という問題についてかんがえます。貧困の連鎖ということが話題になり、子どもの貧困を解決するためのさまざまな施策が提案されています。しかしここに「地方」というキーワードを投下してみましょう。


別府市や小野市の貧困家庭の子どもにさまざまな援助をし、今までなら高校卒業か高校中退で社会に出るしかなかった子どもが大学や大学院に進学してより収入の多い職に就くということを考えてみましょう。

 

その子どもは別府市の大学に行くのでしょうか。別府市にある2つの大学でその子どもの可能性は引き出しきれるのでしょうか。小野市にそもそも大学はあるのでしょうか。その子どもは大学に進学するとともに別府市からあるいは小野市から離れ、多くはそのまま福岡市や関西圏、あるいは首都圏で就職してしまうでしょう。そうした制度の創設に地方の有権者は理解を示すのでしょうか。

 

貧困家庭に支援を行い、貧困家庭の子どもを貧困から脱出させるという政策は、国全体からみればかなり有効な政策です。しかし地方からみると決していい選択とはいえないのです。子どもたちが納税し社会保険料を負担してくれるころにはその地方を離れ、大都会で納税してしまうのです。コストパフォーマンスの悪い政策となってしまいます。それなら土壌改良や基盤整備を行って農業収入を増やしたり、区画整理をして地価を
上げ固定資産税を高くしたり、ロードサイドに大型店を誘致するというような「公共事業的」な税金の使い方のほうが投資効果は高いですし、目に見える政策のため有権者の支持も得やすいのです。

 

パチンコをする生活保護受給者はけしからん。とか、貧困の連鎖を断ち切れ。などという論議に「有権者」というワードと「地方」というワードを追加するだけで、より深い問題がみえてきます。若い人たちに乏しい財源の中から援助を行ったあげく果実は大都市にとられてしまうよりも、低学歴のままで低収入に甘んじて地元に残ってくれることのほうが地方にとってはありがたいことなのかもしれません。

 

わたしは、小野市や別府市の判断は、有権者の判断である限りにおいて、正しいと思います。国や都道府県がその判断に対し異議をとなえる事は越権行為であると思います。同様に自らの懐を傷めない大都市在住の評論家や活動家の方々などの意見も無用と思っています。貧困の連鎖を食い止める政策は、地方からの収奪を加速する政策になりかねないという点と、学歴や所得だけで幸福度は測れないのではないかという疑問、(都
会で消耗するの?)という問題、そして地方自治体における有権者の自決権という観点から考えてのことです。

 

おそろしい想像になってしまいますが、貧困層は本来、中間層や高所得者より流動性は高いのですから、貧困層に「冷たい」自治体から貧困層が逃げ出し、貧困層に「やさしい」自治体に流入するという時代がやってくるのかもしれません。概念として人道的な政策は「かっこいい」のですが、どこまで有権者は負担に耐えてくれるのでしょうか。昨今の欧州における難民問題を見るとそう思います。そうなった時に、「たかがパチ
ンコぐらいがまんできなかったのか?」という問いが生じるかもしれません。

 

付記)生活保護あるいは生活扶助は社会保障制度のひとつとなっていますが、そもそもすべての国民がほぼ同じ率で貧困におちるわけではないという意味で、他の社会保障(医療や介護、老齢年金など)と同様に扱うことはできないと思います。これはいわゆる貧困の連鎖の問題ではない部分での話としてです。病気になったり高齢になることは想像できても、ホームレスになることは絶対に想像できないし、そうならないであろう人に対し、慈善的な発想ではなく所得移転という考え方で生活保護や社会扶助に税金をおさめてもらうということはむずかしいのです。この話はまた改めておこなう予定です。

 

 

保護のてびき[平成27年度版]

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