「さくらのもり」で考えた。

社会福祉士が、福祉や社会保障についていろいろ考えてみるブログです。

貧困JKについてかんがえた

バブルの余韻の残っていたころ、知り合いに”自分氏は貧乏をエンジョイしてるね”と、言われたことのある自分です。

 

いわゆる貧困JK炎上騒ぎを傍観していて、女子高生側を養護する論調にある種の違和感を感じています。2ちゃんねらーが突っ込みを入れているのは、そもそも高価な画材やぜいたくなランチの部分ではないのではないかと。

 

その辺をうまく解説してくれているのが、アゴラの中沢良平さんとかBLOGOSの増沢隆太さんの論調だと思います。今回の彼女、とりあえずUさんとしておきますが、の悩み、”入学金が払えなくてアニメの専門学校に進学できない”というのは貧困とは別の話です。

 

自分としては、Uさんの母親の話を聞いてみたいと思います。高校生ぐらいの子どもが、声優になりたいとか、Uさんのようにアニメのキャラデザインを専門学校で学びたいなどと子どもが言い出したとき、親としてはそんなちゃんとした就職先もないようなところに行かないでふつうの学校に進学して、ふつうの会社に就職してお給料をもらって、アニメは趣味として楽しめばいいでしょう、とアドバイスするわけです。

 

その時に、親の側は”うちにはそんな余裕はない”ということも言うわけです。こうした会話はとくに今の時期、日本中の多くの家庭でなされていて、母子家庭だけでなく年収600万とか800万とかいう家庭でもされているわけです。この問題はわりと古典的な問題で、あの「風立ちぬ」の堀辰夫なんかもたしか親戚とそんなやりとりをしていたような記憶があります。

 

Uさんが本当にアニメのキャラデザインを仕事として選択し、そのためなら多少しんどくてもかまわないというのなら、お金がなくても夢をかなえる方法はあります。たとえば自分が以前お話を伺った若い方は、公共職業訓練を利用し、無料というかお手当つきで専門学校に通い、CGだかWeb制作だかを学んでいました。もちろん目的はAdobeのCCが無料で使える、しかも学校のそれなりにハイスペックなマシン上で、という不純なものでしたが。

 

もしUさんがただワンピースが好きなだけ、というのであればやはり世間一般の親たちの言うように、きちんと就職して趣味は趣味として楽しむのが賢明だと思います。

 

貧困報道などに物申してしまうと、なにか自動的にスイッチが入って熱のこもった擁護をしてしまう意識の高い方々も多いのですが、自分はそうした論調にはやはり違和感を感じます。政府はUさんが夢をかなえることを邪魔してはならないのですが、夢をかなえることを保証するような政策をとる必要はないのではないでしょうか。

 

この話、もう少し続けます。

パチンコについてかんがえた。

みわ氏の文章「パチンコを責められない生活保護ケースワーカーの葛藤」

を読んでひさしぶりになにか書きたくなったので、まとまりのないままに書いてみます。

 

このごろのみわ氏の文章は以前ほど迫力が無くなってきて丸くなってきていますが、それでも少しは突っこみどころはあります。例えばこんなところです。

 

スマートフォンをつつきながら生活保護を受けている」若年の生活保護利用者たちが、医療機関の職員たちに「なぜこういう人が生活保護なのか」という疑問を持たれている(2011年12月12日 第2回「生活保護 制度に関する国と地方の協議」議事録における岡崎高知市長の発言)

という意見を紹介しつつ、

 

もと電機メーカーの「中の人」であった自分の立場から一言突っ込むと、ハードやアプリを提供する企業に対する開発・生産コスト、ひいては消費者に対するコストを下げる役割を果たしているのがスマートフォンだ 。もしも生活保護利用者のために、いわゆる「ガラケー」の開発体制や生産ラインを維持したら、かえって高くつくことになりかねない。しかし「ガラケーの方が高くつく」と説明しても、相手は納得しない。

 


と、見当違いに返してしまっています。議事録をきちんと読むと”若年層の失業者を、生活保護で救済するのではなく、雇用保険などの別の制度で救済すべき”という話の流れではないかと思われます。また医療関係者がスマホを問 題視していたとしても、それは「生保」のくせに、ということではなくおそらくその若者が(病院の待合室などで)スマホゲーにはまっていて、それなりに課金などもしていることを問題視しているのではないでしょ うか。

 

スマホ」というワードに過剰に反応してしまい、見当違いの反論をかましてしまうという構造はみわ氏の文章にはよく見られるものです。みわ氏が「パチンコ」というワードに反応してしまうこともこうした「生活保護叩き」叩きの戦略の一つであることは確かでしょう。

 

生活保護とパチンコという問題は、兵庫県小野市の条例に始まり、今回の大分県別府市で再度社会問題として認識されています。パチンコをする生活保護受給者を擁護する理屈にはいくつかのものがあります。そもそも「保護費を何に使うかは個人の自由である。」とか「文化的な生活には娯楽も当然ながら含まれる。パチンコも度を過ぎなければ健全な娯楽であるからかまわないし、過度にホールに通っているのならばそれは依存
症という病気であるから、受給者本人を責める事はできない。」などという理屈です。

 

しかし生活保護とパチンコと言う問題は、実はもっと大きな問題を含んでいるのです。上記のような些末な理屈で問題を終わらせてはもったいないのです。ここに2つのキーワードを投下してみます。1つは「有権者(納税者)」であり、もう1つは「地方」というキーワードです。

 

まず有権者(納税者)です。私たちはみな貧困におちいるリスクを負っています。生活保護制度はそのためのセーフティーネットであり、社会保障制度のひとつということになっています。生活保護制度を含む困窮者に対する救済制度は、国の制度であるとともに自治体ごとに独自の制度を作ることも可能です。

 

たとえばある自治体で生活保護の申請要件を、他の自治体よりも大幅に緩和し、また生活保護で救済しきれない部分まで手厚く保護する制度を創設したらどうなるでしょう。もちろん費用のかかる問題ですから当然税金は高くなるし、そうでなければ他の経費、道路や学校などの経費を縮減することになります。こうした政策に有権者の理解は得られるのでしょうか。

 

さらに日本の生活保護制度は申請主義であると同時に「現状保護」です。つまりホームレスなどで住所地が無い場合、最寄りの(あるいは保護を受けたい地域の)福祉事務所で申請することができます。例えば別府市生活保護の申請をとてもしやすくし、さらに他の自治体にないような付加的な給付をおこなえば、別府市に縁のない人たちも申請にやってくることが考えられるわけです。そしてその給付に必要な財源の何割かは別
府市民が負担することになってしまうわけです。

 

生活困窮者にやさしい自治体というのはなかなかできないものですし、もしそうした自治体ができたとしても他の自治体から流入してくる困窮者は排除することでしか有権者の理解は得られないでしょう。生活保護受給者がパチンコをすることがいいのか悪いのかということは、善悪の問題でもなく、倫理的な問題でも人権や憲法の問題でもなく、その自治体の税金の使われ方の問題であり、その自治体の有権者の判断にゆだねられ
るべき問題なのです。なぜそんなことがまかり通るのか、と憤る方もいらっしゃるかと思いますが日本は「民主国家」なのですからしかたないのです。

 

次に地方という問題についてかんがえます。貧困の連鎖ということが話題になり、子どもの貧困を解決するためのさまざまな施策が提案されています。しかしここに「地方」というキーワードを投下してみましょう。


別府市や小野市の貧困家庭の子どもにさまざまな援助をし、今までなら高校卒業か高校中退で社会に出るしかなかった子どもが大学や大学院に進学してより収入の多い職に就くということを考えてみましょう。

 

その子どもは別府市の大学に行くのでしょうか。別府市にある2つの大学でその子どもの可能性は引き出しきれるのでしょうか。小野市にそもそも大学はあるのでしょうか。その子どもは大学に進学するとともに別府市からあるいは小野市から離れ、多くはそのまま福岡市や関西圏、あるいは首都圏で就職してしまうでしょう。そうした制度の創設に地方の有権者は理解を示すのでしょうか。

 

貧困家庭に支援を行い、貧困家庭の子どもを貧困から脱出させるという政策は、国全体からみればかなり有効な政策です。しかし地方からみると決していい選択とはいえないのです。子どもたちが納税し社会保険料を負担してくれるころにはその地方を離れ、大都会で納税してしまうのです。コストパフォーマンスの悪い政策となってしまいます。それなら土壌改良や基盤整備を行って農業収入を増やしたり、区画整理をして地価を
上げ固定資産税を高くしたり、ロードサイドに大型店を誘致するというような「公共事業的」な税金の使い方のほうが投資効果は高いですし、目に見える政策のため有権者の支持も得やすいのです。

 

パチンコをする生活保護受給者はけしからん。とか、貧困の連鎖を断ち切れ。などという論議に「有権者」というワードと「地方」というワードを追加するだけで、より深い問題がみえてきます。若い人たちに乏しい財源の中から援助を行ったあげく果実は大都市にとられてしまうよりも、低学歴のままで低収入に甘んじて地元に残ってくれることのほうが地方にとってはありがたいことなのかもしれません。

 

わたしは、小野市や別府市の判断は、有権者の判断である限りにおいて、正しいと思います。国や都道府県がその判断に対し異議をとなえる事は越権行為であると思います。同様に自らの懐を傷めない大都市在住の評論家や活動家の方々などの意見も無用と思っています。貧困の連鎖を食い止める政策は、地方からの収奪を加速する政策になりかねないという点と、学歴や所得だけで幸福度は測れないのではないかという疑問、(都
会で消耗するの?)という問題、そして地方自治体における有権者の自決権という観点から考えてのことです。

 

おそろしい想像になってしまいますが、貧困層は本来、中間層や高所得者より流動性は高いのですから、貧困層に「冷たい」自治体から貧困層が逃げ出し、貧困層に「やさしい」自治体に流入するという時代がやってくるのかもしれません。概念として人道的な政策は「かっこいい」のですが、どこまで有権者は負担に耐えてくれるのでしょうか。昨今の欧州における難民問題を見るとそう思います。そうなった時に、「たかがパチ
ンコぐらいがまんできなかったのか?」という問いが生じるかもしれません。

 

付記)生活保護あるいは生活扶助は社会保障制度のひとつとなっていますが、そもそもすべての国民がほぼ同じ率で貧困におちるわけではないという意味で、他の社会保障(医療や介護、老齢年金など)と同様に扱うことはできないと思います。これはいわゆる貧困の連鎖の問題ではない部分での話としてです。病気になったり高齢になることは想像できても、ホームレスになることは絶対に想像できないし、そうならないであろう人に対し、慈善的な発想ではなく所得移転という考え方で生活保護や社会扶助に税金をおさめてもらうということはむずかしいのです。この話はまた改めておこなう予定です。

 

 

保護のてびき[平成27年度版]

保護のてびき[平成27年度版]

 

 

待機児童についてかんがえた。

待機児童問題については、以前から違和感がある。「日本死ね!」とか言われてもまったく同調できない。

 

なにかもやもやしたものがあったが、Web上で2つの記事を読んで少し、もやもやが晴れた。

 

アゴラ 筒井冨美さんの記事

    

保育園問題とは、不足よりも認可/無認可の格差 — 筒井 冨美 – アゴラ 言論プラットフォーム

 

数えられなかった羊

中産階級とは誰か、権威・不平等における外国人恐怖(『シャルリとは誰か?』捕捉) - 数えられなかった羊

 

この2つの記事を並べて読んでみれば、なんとなく問題の本質が見えてくる。

 

4大を出て、それなりの企業で総務とか広報などで正社員で働く、おそらく23区内のしかも杉並とか世田谷あたりに住んでいる人の子どもの保育と、さまざまな問題をかかえてしまい、いわゆる「夜のおしごと」をしているシングルマザーの子どもの保育とはどちらに優先順位があるのだろうか。

 

自分はあきらかに「夜のおしごと」をしているシングルマザーの子どもの保育をまっ先に充実させるべきだと思うし、そうした人たちが利用できる「公的」で「安価」な24時間対応の保育サービスの必要性については決して語られることがない。

 

さまざまな政党が、待機児童問題を語り、給付型奨学金問題を語るのは、選挙権18歳の流れからの発言であることは理解できる。しかし、それだけでいいのだろうか。

 

大学進学率が上がっても、50%近くの人は大学に行っていないということは事実であるし、土日や夜間にかかる仕事をせざるをえない女性たちはそもそも保育所に申し込むことすらできないのである。

 

少子化対策と言いつつ、その裏で、どういう階層の人間を増やしたいのか、という動きがあることに注意したいと思う。日本の社会保障をめぐる問題にはこの見えにくい階層の問題はついて回る。格差社会という問題にもついて回っている。

 

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (文春新書)

 

Bくんのことを、かんがえた。

新しい年になって、一週間をすぎてようやく脳細胞が動き始めた、さくらのもり」です。今日はBくんについてかんがえます。

 

Bくんのことは、地域福祉についてかんがえるときの「ネタ」にとっておこうかと思ったのですが、緊急性もある事例ですので今ここでかんがえてみます。もし、県や厚労省の関係の方とかがこれをご覧になっていらっしゃったら、ぜひお知恵をお貸しください。

 

Bくんはある県に住んでいる中学生です。Bくんはある疾病により中途失明してしまいました。Bくんの住む県には盲学校が少なく、Bくんの家の近くまでスクールバスは来てくれません。

 

Bくんが盲学校に通うには、スクールバスが来てくれる駅まで30分ほどかけて通わなくてはなりません。

 

Bくんのおうちは母子家庭です。Bくんを含めて兄弟は4人います。生活保護も受給しています。保護を受けているため自家用車を持つことはできません。母親がスクールバスの来る駅まで送迎することはできません。

 

Bくんのおうちは裕福ではないため、ヘルパーを頼んで送迎をしてもらうこともできません。Bくんの住む自治体では、こうした場合1時間1,000円でヘルパーを派遣してもらうこともできるのですが。

 

Bくんに会って、話をする機会がありました。Bくんは現在スクールバスをだしてくれる特別支援学校に通っています。その支援学校は重複障害をかかえる子どもたちが通う学校です。視覚障害をかかえる子どもたちもたくさん通っているのですが、知的障害があったり、肢体不自由であったりで、Bくんのように視覚障害のみというお子さんはいらっしゃらないようです。

 

盲学校からは、月に一度だけ教員の方がいらっしゃってBくんに指導をしてくれます。でも、Bくんにはそれだけでは足りません。Bくんは白杖の使い方もよくわかりません。点字もわかりません。音声認識などのIT機器の使用も覚えられません。

 

Bくんは中学生です。やがて支援学校の高等部に進むでしょう。でも、18歳になると、Bくんは今の状態で社会に放り出されてしまいます。Bくんのように他の障害がなく、視覚の障害だけの方の中には、弁護士などの専門職に就いていらっしゃる方もたくさんいらっしゃいます。一般就労をはたし、自立自活され家庭を築いている方もいらっしゃいます。

 

このままにしておいて、Bくんはどうなってしまうのか。それが心配です。なんとか早いうちに盲学校に通えるようにしてきちんとした、Bくんに適した教育を受けられるようになってもらいたいのです。そのためにかかる費用は実はわずかです。Bくんが社会参加を果たし、自立して自活することによる社会全体が受ける恩恵に比べれば。

 

というわけで、ぜひお知恵を拝借したく思います。それなりに実行力のある方からのお問合せにはよりくわしい情報もお出しできるものと思います。まあ、そもそも「特別支援学校への就学奨励に関する法律」でなんとかなりそうなんですが。Bくんのところの自治体はなにをやっているんでしょうか。

 

特別支援学校と名がつけば、とりあえずどこでもよくって、一番経費の掛からないところに入れちゃえばいいや。と、思うか、その子どもにとって一番適切な環境を、多少お金がかかっても用意するべきなのか。法の目的からいえば後者なのでしょう。多少お金がかかっても、Bくんなら将来ちゃんと就職してかかったお金の何十倍も税金やらで返してもらえそうな気がします。

 

このケース、あまり進展がなかったら自治体名を公表しちゃおうかなと思ったりして。とにかく、ソーシャルワーカーは、フリーでやってるときついものなのです。

24時間についてかんがえた

週末に、リレーフォーライフぐんまに行ってきました。リレーフォーライフは、がん患者やご家族を支援し地域で支える活動です。年に一度大会が開かれ、24時間のリレーウォーキングを行っています。全国では40か所以上の会場でほぼ一年を通して行われています。

 

群馬の大会は今年で3回目か4回目ぐらいでしょうか、私は去年に続いての参加となりました。会場に着いたのは夜10時近かったのに、大勢の参加者がトラックを行進していてびっくりしました。ルミナリエとよばれるランタンもトラックを5重にとりまくほどでその数の多さにびっくり。

 

ちなみにその時点ですでに270万円ぐらいの寄付が集まっていました。ルミナリエには患者さん(サバイバーと言います)の思いや、身内の方を亡くした家族の思い、医療関係者のがん征圧への思いなどが書かれています。

 

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このルミナリエを書いたのは、小児がんの患者さんでしょうか。夢は「ままになりたい。」だそうです。とてもすてきなお母さんと暮らしている姿が浮かびます。裏にはお母さんの手で「ちりょうにまけないで、たたかうすがたは、とてもつよいよ。いつも、おうえんしているよ。」と書かれていました。

 

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こちらのルミナリエは、お母さんを亡くしたご家族のものでしょうか。「お母さんの娘に生まれて幸せでした。」とあり、「お誕生日おめでとう!お墓に会いに行ったのわかった?」とありました。10年間お疲れさま、とあったので長い闘病生活を支えたご家族の苦労が伺えます。

 

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「願いはかなう」というルミナリエもありました。群馬の大会に行ったのは、成年期の末期がん患者や小児がん患者の移動支援を行うNPO群馬県で作りたかったからです。「願いをかなえる」NPOを一日も早く作らなくては、という思いが一層強くなりました。孫さんあたりが資金提供してくれないかな?

 

で、ここからが本題です。リレーフォーライフの大会は24時間かけて患者自身や支援者が会場内のトラックをひたすら歩くのです。なぜ24時間なのでしょうか。

 

がん患者は24時間がん患者なのです。支える家族も24時間支えています。医療に携わる人は、医師でも看護師でもあるいは他のコメディカルソーシャルワーカーでも、シフトを離れれば、服を着替えてふつうの人に戻れます。

 

年に一度くらいは、24時間がん患者でいることの意味を知ってほしいというのがこのイベントの意味です。

 

でもこれはがん患者だけの問題ではないのです。身体障がい者や精神障がい者も24時間障がい者であるし、生活困窮者も24時間生活困窮者なのです。福祉の現場で働く人たちは一度はそうしたことを感じたことがあるはずです。シフトを離れる時にまるで自分だけ問題から逃げ出しているような感覚に。

 

勤務時間が終われば、当たり前のようにその場から離れられる人間と、問題と24時間かかわっていなくてはならない当事者とが、本当の信頼関係を築くことができるのかという問いはもっと福祉関係者や行政の担当者が考えなくてはならないことです。

 

 

看取り先生の遺言―がんで安らかな最期を迎えるために

看取り先生の遺言―がんで安らかな最期を迎えるために

 

 

ニフティについて、かんがえてみた。

参院平和安全法制特別委員会にSEALDsのメンバーの方が出席され、意見表明をされました。SEALDsについては、以前、宣伝カーがある労働組合関係から借りたものだったとか報道されたことがありました。

実際、国会前のデモとか集会とかに行くと労働組合のノボリ旗がたくさん立っているということです。SEALDsさんが労働組合などから支援を受けて活動されているのかについては不明ですが、そうした報道に敏感になってしまう「さくらのもり」です。

今日は、労働組合にやられちまった話を書いてみます。

昔々、ニフティというサービスがありました。わたしは当時いくつかの会議室に所属していました。その中に、当時勤めていた会社や同業の業界の会議室がありました。リテラシーの低かったわたしは、その会議室に当時勤めていた会社への不満や、なにもしてくれない労組への不満をせっせと書き込んでいました。

それから20年近い年月が流れたある日、会社の上司からある人物を紹介されました。その方は関西地方の同業者の方で、労働組合の幹部の方。しかもナントカ労連のほうでも幹部の方でした。

その方といろいろお話をしているうちに、ニフティの話になりました。あのころいろいろ書き込みをしていましたよ、という話をしたところ、その幹部の方は”わたしがあの会議室のボードリーダーだったんですよ”と明かしてくださいました。

その一か月後のことです。わたしは突然配置転換を申し渡されました。リストラというか人材開発室行きというか、そういう人事異動でした。上司に聞いてもはっきりした理由は教えてもらえません。

そのまた数か月後にわかったこと。ナントカ労連の幹部の方が関西に戻って当時のログをチェックしたようです。そしてわたしが会社や労組に批判的な人間であることを知り、友人だったわたしの上司に連絡したのです。

会議室では匿名で発言しているつもりでも、ボードリーダーなら本名からおおよその住所まですべてわかりますから発言は特定できたのでしょう。わたしは20年も前のネット上のリテラシーの低い行ないでいろいろと棒にふってしまいました。

まあ、その結果わたしはその業界を離れ勉強をしなおして、この福祉の世界に入ったわけですから悪い事ばかりではないし、そういうひどいことをしてしまった上司はそれが原因かどうかはわかりませんが、ひどいうつを患ってしまい現場からはずされたようです。

まだもやもやとした疑問として残っているのは、ボードリーダーがそのようにして得た個人情報を漏らしたことに違法性はなかったのだろうか、ということと、(ニフティはたしかボードリーダーに、アクセス数に応じた報酬が支払われていたはずなので)会社員であるボードリーダーがそのような報酬を受け取って、問題はなかったのだろうか、ということです。

どちらにしろ、労働組合と聞くとこの出来事を思い出してしまうのです。そして(あいかわらずリテラシーの低いことですが)労働組合の人のやることは、あんなことなのだろうな、と思ってしまうのです。

国会前を写した写真にあのボードリーダーが所属していた労働組合連合会の旗が写っていたため、こんな話を思い出してしまいました。当時のニフティをご存じない方にはわからない用語ばかりで申し訳ないですが、わからないところはどこかで調べてみてください。

労働貴族 (講談社文庫)

 

フリーについて、かんがえる前に。

みわよしこさんという人の名前がどうも覚えられない、「さくらのもり」です。

 

ひらがなで5文字の、女のひとだったよな。としか覚えられないので、どうしても「やなぎみわ」とか、「けらえいこ」とか検索してしまいます。

 

フリーについてかんがえているときに、そのみわよしこさんのツイッターを発見してしまいました。参考にさせていただきたいツイートの少し前にちょっと首をかしげてしまう記述があったのです。

 

なんぷうさんのツイート、”人口が2万3000人の富良野市では、社会福祉協議会はありません。福祉貸付制度がないので、・・・・冬場は(暖房費を節約するために)公共機関で暖をとっています。”に対して、

”そういう時、お子さんはどうしているのですか?”と返してしまっているのです。

 

ちょっと、待ってください。富良野市にも社会福祉協議会はありますから。福祉貸付制度もあります。

 

そこをきちっと返してあげることが、正確な情報を提供してあげることが大事なのではないでしょうか。

 

みわよしこさんにはいろいろありますが、それはいずれ”フリーについてかんがえる”ときにということで。

 

セーフティネット―コミュニティソーシャルワーカーの現場

セーフティネット―コミュニティソーシャルワーカーの現場